2008/12
化学療法の先覚者 秦佐八郎君川 治






秦佐八郎生家

秦佐八郎記念館


























展示室


記念館前の秦佐八郎胸像
 秦佐八郎は島根県の出身であり、記念館があることは知っていた。わざわざ出掛けるには遠過ぎるので記念館の資料を入手するに留めており、すっかり忘れていた。
 今回、萩に行く用事があり萩・石見空港に降り立つと「秦佐八郎没後70年記念講演会」の大きな垂れ幕を見つけ、急に行ってみようと思い立った。
 空港バスの運転手に聞いても「秦佐八郎記念館?聞いたことないねぇー」と冷ややかである。空港観光案内所で記念館のパンフレットを貰い、益田駅からバスの便があると分ったので、先ずは萩の用を済ませて翌日に益田に行こうと決めた。
 萩から益田に行く列車ダイヤを調べてみると、JR山陰本線は2時間に1本しか走っていない。早朝に宿を出て東萩で列車を待った。2両連結であるが乗客は通学の高校生たちだけで、4人掛けのボックス席を独り占めして1時間10分で益田駅に着いた。
 駅前のバス案内所で「秦佐八郎記念館」に行きたいのだと告げるが、場所は分らないという。地名の書かれた記念館パンフレットを見せると、ようやく行き先を教えてくれた。
 平成の市町村合併で益田市になったが、元は島根県美濃郡美都町だ。駅からバスで約50分、随分な田舎であり記念館が分かるかと心配だったが、パンフレットにはバス停は記念館前にあると書いてある。
 降り立ったバス停は美都町役場のある町からだいぶ先で、人家の殆どないところ。記念館を示す大きな看板があり、指示に従って脇道に入ってしばらく行くと、大きな木造の家の前に出た。家の前に「秦佐八郎記念館」の説明板がありホッとした。大きな家の真ん中が筒抜けになった所を入ると、中に家が並んでいる。当然ながら誰もいない静かな佇まいである。記念館の前には立派な菊の懸がいを並べて見事である。博士が菊作りの名人だったので毎年秋になると、この場所で菊花展を開くのだと後でわかった。
 秦佐八郎はこの地の旧家山根家の8男として明治6年に生まれた。幕末までは庄屋で、酒造りも営んでいた。厳格な父道恭は山根家12代で、現在の当主が15代である。
 佐八郎の都茂小学校の成績は当然ながら群を抜いていたという。同じ村で代々医業を営む秦家は山根家とは縁戚関係にあり、男子がいないので8男の佐八郎が14歳の時に養子となる。秦家は女系で、3代続いて養子を貰っている。
 佐八郎は医者になることを目指して益田に出て英語塾で学び、岡山で医学校の予備校に1年通い、岡山の第3高等学校(現岡山大学)医学部に入学した。卒業後は一時陸軍に応召して医官を務めているが、その後は県立岡山病院(大学病院)の助手として勉学と研究に励む。
 記念館は生家の隣の酒蔵のあった所に美都町が設立しており、町のボランティアの人が説明してくれる。キャッチフレーズは「郷土の偉人から世界の偉人へ」で、ノーベル賞候補にまでなった秦佐八郎が地元でも余り知られていないのを残念がっていた。展示室には佐八郎の手紙や写真、卒業証書、愛用の硯や筆などが展示してある。筆字は素晴らしく上手である。
 秦佐八郎の4人の恩師の説明がある。第1は医学校の指導教官井上善次郎教授、第2は病院時代の指導教官荒木寅三郎教授。この荒木教授に医化学の指導を受け、荒木教授の勧めで上京して北里柴三郎の伝染病研究所に入所する。
 第3の恩師が北里柴三郎で、ここでペストの研究を続け、ドイツで開催される万国衛生学会で発表をかねてドイツに留学した。ドイツでは最初は恩師北里柴三郎と同じコッホ研究所に1年間いて、その後フランクフルトの国立実験治療研究所でエールリッヒ所長の指導を受ける。
 第4の恩師エールリッヒの指導によりスピロヘータ治療薬開発の動物実験を続け、治療薬サルバルサンを発見する。正式にはサルバルサン606号といわれており、606番目の試薬であった。三大伝染病の一つと言われた梅毒の特効薬だ。
 医学者として順調に階段を上って行った秦佐八郎にも大きな悩みがあった。代々続く医者の家を継ぐことを望まれた養子であり、医学校を卒業して1人娘のチヨと結婚したが向学心が益々強くなる。養家の秦家の方は佐八郎の気持ちを汲んで寛大な態度であったが、山根家の実父からは医業を継がなければ勘当だと怒られる。
 結果は恩師たちが応援してくれるほど佐八郎が優秀であった。北里柴三郎は世界的に著名な細菌学者であり、荒木教授も後に京都帝国大学総長になった学者である。
 留学から戻った佐八郎は北里研究所で研究を続け、副所長になり、慶応大学医学部教授を兼任し、文化功労者に選ばれている。
 Newton編集世界の科学者100人に秦佐八郎が入っている。どのような基準で選定しているかは不明だが、日本人は15人で、長岡半太郎や寺田寅彦、北里柴三郎、牧野富太郎など錚々たる科学者医学者たちに列している。明治100年島根の百傑の一人にも選ばれている。医者は森鴎外と秦佐八郎である。佐八郎も子供は娘で、教え子の医学者を養子に迎えている。
 美都町と益田市を結ぶバスは2時間に1本しかない。町はずれの集落で食事するところもない。東京からわざわざ見学にきたのを喜んだ説明員の親切なオジサンが近くの美都温泉まで車に乗せてくれた。ここは竹下元総理の「ふるさと創生1億円」で温泉を掘り当てたそうだ。土曜日で昼間から入浴客が次々とやってくる。隣には道の駅美都も出来ている。秦佐八郎をPRするには生家隣より温泉の隣の方が効果があると提案しておいた。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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